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ゼロ年代以降の女子のロールモデル

現在観測 第13回

ナンバーワンからオンリーワンへ

そんな「共通ロールモデル不在」の状況を裏書きしたのが、SMAPによる2003年のヒット曲『世界に一つだけの花』である。SMAP草なぎ剛主演の『僕の生きる道』の主題歌だった本曲では、「ナンバーワンよりオンリーワン」を是とする考え方が執拗に主張される。

「あるひとつの価値観の中だけで1番を決めなくていい」「みんなが好きなものを、自分も好きでなくていい」「自分の得意分野で勝負すればいい」――『世界に一つだけの花』の優しい思想は、小泉政権のもと経済格差が広がりつつあった当時の大衆社会に、大いなる歓待をもって受け入れられた。

「ナンバーワンよりオンリーワン」を言い換えるなら、「全員が憧れる、たったひとりのカリスマなんて必要ない」ということだ。それぞれが、それぞれ好きな人を、好きなように愛せばいい。これほどまでに「価値観の多様化」というバズワードの受け皿になった流行語はないだろう。ある世代全体が志向する単一のロールモデルなど、不要。その考え方は家庭や教育の現場で、大人から子供へと、ゆっくり、しかし確実に伝播していった。

こうしてゼロ年代の少女たちは、そもそも「共通ロールモデル制」というシステムになじみが薄いまま成長してゆく。代わりに台頭を始めたのが、彼女たちがローティーンになってから直面するスクールカーストを背景とした「キャラ選択制」である。

スクールカーストとは、主に小学校高学年から中学・高校にかけて、教室内に形成される序列のこと。女子で言えば、上位にはコミュ力の高い体育会系なリア充のギャルやヤンキーが、下位にはコミュ力の低い非モテの各種オタク(腐女子含む)が位置し、その間には無数の中間クラスタ――サブカル女子、委員長系優等生、文学少女、バンギャやゴスロリ等――が存在している。

教室内スクールカーストにおいては、一度どこかのクラスタに属してしまうと、当年度中に別クラスタへと移行するのは難しい。そもそも、一朝一夕にスペックアップできない「コミュ力」や「モテ力」という評価軸があらかじめ設定されている序列内で上を目指す行為は、あまり現実的ではないのだ。

したがって彼女たちの多くは、序列内トップ争いなどという消耗ゲームに参加するようなバカはやらない。代わりに「キャラ」を掲げて自分にタグ付けすることで、いずれか、もしくは複数のクラスタに属して居場所を確保し、アイデンティティを確立するのだ。キャラとは、「アニメに詳しい自分」「洋楽に詳しい自分」「お笑いに詳しい自分」「ギターが弾ける自分」「ダンスが得意な自分」――といったものである。

自分につけるキャラのタグは、ひとつとは限らない。教室内では人畜無害なJ-POP好き、小学校時代の友達とは渋谷でつるんで遊び、塾友とだけ深夜アニメの話で盛り上がる――そんなふうにマルチなキャラを使い分けている女子も珍しくない。

彼女たちは、TPOに応じてキャラの着脱を繰り返し、複数のコミュニティ内を行き来しながら、日々をサバイブする。昨今なら、膨大に設定されたLINEのグループ数や、Twitterの複数アカウント所有が、そのことを端的にあらわしているだろう。

 

外部にお手本はいらない

 

スクールカーストの上位を志向することと、皆に共通のカリスマ的なロールモデルを設定することは、あらかじめ決められている単一価値観の軸上で「ナンバーワン」を目指すという意味において、ほとんど同じ考え方である。したがって、ゼロ年代にティーンを経た女性の多くは、世代全体に共通するロールモデルを設定して、その人間の価値観や人生に誰が一番近づけるか……というゲームには参加しない。ひとりひとりがまったく別の、あるいはキャラタグと同じく同時に複数のロールモデルを設定し、皆が別々の方向を志向するのだ。

また、通常ロールモデルは自分以外の人間、つまり自己の外部に設定するものだが、彼女たちの視線の多くは外部ではなくどちらかと言えば内部、つまり自分自身に向けられている。複数のキャラタグを付けてカスタマイズされた自分が世間にどう見えているか。それこそが彼女たちの最大の関心事なのだから。

ちなみに、少女たちが(ロールモデルたる外部の他者ではなく)“自分”の写真を大量に持ち歩き始めたのは、1990年代後半のプリクラブームから。カメラ付き携帯電話で自撮りに励み始めたのはゼロ年代初頭から。そして自撮り写真を加工してネット上で公開しはじめたのが、スマホとSNSの普及が進んだゼロ年代末からである。

ゼロ年代、少女たちは外部に「世代全体に共有するお手本」を求めなくなり、ひたすら内部――すなわち自己の“見てくれチェック”――に執心するようになった。無理もない。今の世の中、英雄的なひとりのカリスマが世代全体の希望の星となって閉塞した状況を一発解決してくれることに、現実感などないからだ。リーマン・ショック以降の不況も、貧困問題も、年金問題も、就職難も、大震災も、セーラームーンが誰か悪いやつを「お仕置き」したら解決するような、簡単な話ではないのである。

昨今のハロウィンでは、セーラー戦士に仮装している若者をときおり見かけるが、さもありなん。元来ハロウィンとは死者の霊が訪ねてくる祭りである。もはや、セーラームーンは死んだのだ。

 

 

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稲田 豊史

いなだ とよし

編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『押井言論2012-2015』(編集)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『ヤンキー経済消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「SPA!」などで執筆中。http://inadatoyoshi.com


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  • 稲田 豊史
  • 2015.05.23